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ベンヤミン・ネタニヤフ
Benjamin Netanyahu

その1
公式サイト netanyahu.org.il :Wikipedia
War in UKRAINE #7762 26 June 2025


独立系メデア E-wave Tokyo 2025年6月26日(JST)



Official portrait of Israel's 9th Prime Minister, Benjamin Netanyahu

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本文


 ベンヤミン・ネタニヤフ(Benjamin Netanyahu, またはBinyamin He-Benjamin Netanyahu.ogg 発音[ヘルプ/ファイル], ビンヤミン・ネタニヤーフ、ネタニヤウ、ナタニヤウ(原音に近い)、1949年10月21日 - )は、イスラエルの政治家。イスラエル首相(第13・17・20代)、クネセト議員(13期)、リクード議長(第3・5代)。

 以下略歴

 生年月日 1949年10月21日(75歳)
 出生地 イスラエルの旗 イスラエル・テル・アヴィヴ
 出身校 マサチューセッツ工科大学(BS, MS)
 ハーバード大学(自主退学)
 現職 イスラエル国首相
 所属政党 リクード
 称号 大尉
 配偶者 サラ・ネタニヤフ
 親族 ネイサン・マイコウスキー(祖父)
 
ヨナタン・ネタニヤフ(兄)
 イド・ネタニヤフ(兄弟)
 エリシャ・ネタニヤフ(叔父)
 ネイサン・ネタニヤフ(いとこ)


 
イスラエルの旗 第20代 イスラエル国首相
 内閣 第6次ネタニヤフ内閣
 イスラエル戦時内閣
 在任期間 2022年12月29日 -
 大統領 イツハク・ヘルツォグ
 イスラエルの旗 第17代 イスラエル国首相
 内閣 第2次ネタニヤフ内閣
 第3次ネタニヤフ内閣
 第4次ネタニヤフ内閣
 第5次ネタニヤフ内閣
 在任期間 2009年3月31日 - 2021年6月13日
 大統領 シモン・ペレス(2009 - 2014)
 ルーベン・リブリン(2014 - 2021)
 イスラエルの旗 第13代 イスラエル国首相
 内閣 第1次ネタニヤフ内閣
 在任期間 1996年6月18日 - 1999年7月6日
 大統領 エゼル・ワイツマン

 生誕 1949年10月21日(75歳)
 イスラエルの旗 イスラエル・テルアビブ
 所属組織 イスラエル国防軍
 (特殊部隊・サイェレット・マトカル)
 軍歴 1967 - 1973
 最終階級 大尉(Seren)
 戦闘 消耗戦争
 サベナ航空572便ハイジャック事件
 第四次中東戦争

 ベンヤミン・ネタニヤフ(Benjamin Netanyahu, またはBinyamin He-Benjamin Netanyahu.ogg 発音[ヘルプ/ファイル], ビンヤミン・ネタニヤーフ、ネタニヤウ、ナタニヤウ(原音に近い)、1949年10月21日 - )は、イスラエルの政治家。イスラエル首相(第13・17・20代)、クネセト議員(13期)、リクード議長(第3・5代)。

 外務大臣(第17代)、財務大臣(第18・20・24代)、通信大臣(第33代)、イスラエル国連大使(第7代)を歴任した。ネタニヤフとはヘブライ語で「ヤハウェが与える」という意味。2023年パレスチナ・イスラエル戦争において、ガザ地区の住民を飢餓に陥れた戦争犯罪や、住民を大規模かつ組織的に攻撃した人道に対する罪の疑いにより、国際刑事裁判所から逮捕状が出ている[1]。

 イスラエル建国後に生まれた最初の首相経験者であり、歴代首相の中で最年少で首相に就任した人物でもある[2]。首相としての通算任期17年は歴代最長である。イスラエル国内や海外での同胞ユダヤ人たちの間などでは「ビビ」の愛称で呼ばれている。若い頃には、ベン・ニタイ(Ben Nitay,?? ?????)という名でメディアに登場したことがある[3]。

 ネタニヤフはミスター・セキュリティ(ミスター安全保障)を自称している[4]。ネタニヤフはイスラエルの存続を脅かすと考える勢力に対して強硬な立場をとることで知られるが、ガザ地区でのハマース掃討作戦に関して「アマレク人(ヤハウェの命で聖絶された民族)が我々に対して何をしたかを思い起こせと私たちの聖書が呼び掛けている」「私たちはアマレク人の所業を記憶している」と発言するなど[5]、ジェノサイドを示唆するような言動に関しての批判もある[6][7]。


略歴
家族及び個人の背景


 1949年、ベン=ツィオン・ネタニヤフ(英語版)とジラ・ネタニヤフ夫妻の次男としてイスラエルで生まれた。父親のベン=ツィオンはロシア姓をミレイコフスキー(Милейковский)といい、1910年に、旧ロシア帝国ポーランド領ワルシャワで生まれた。彼の父(ベンヤミン・ネタニヤフの祖父)は、シオニスト運動家のナタン・ミレイコフスキーで、一家は1920年パレスチナへ移住し、エルサレムに入植した。ベン=ツィオンもまた父の思想を受け継いだシオニスト運動家で、コーネル大学でユダヤ史の教授をつとめた。及びヘブライ・エンサイクロペディアの編集者であり、それが息子たちの思想に大きく影響している。兄のヨナタン・ネタニヤフは1976年のエンテベ空港奇襲作戦で戦死したイスラエルの英雄。弟のイド・ネタニヤフ(英語版)は放射線科医であり劇作家でもある。兄弟は三人ともイスラエル国防軍のエリート部隊、「サイェレット・マトカル」に所属した。

 ネタニヤフは家族と共に1956年から1958年、1963年から1967年にかけてアメリカに在住。ペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外で成長し、チェルテナム高校を卒業した(兄も同高校を卒業している)。高校ではディベートクラブに所属していた(そのため英語に堪能であり、言葉にはフィラデルフィア訛りがあるという)。

 高校卒業後にイスラエル国防軍に入隊し、上記のとおりサイェレット・マトカルに所属。1967年から1973年にかけて様々な軍務(第三次中東戦争、消耗戦争、サベナ航空572便ハイジャック事件の解決)に従事。1972年には肩を撃たれて負傷している。第四次中東戦争では部隊を率いてシリア領内に侵入した。1973年に除隊(最終階級は大尉)。

 除隊後はアメリカに戻り、マサチューセッツ工科大学の理工学位とMITスローン経営大学院の学位を取得、ハーバード大学とMITで政治学を学んだ。三度結婚しており、最初の結婚で娘のノアをもうけた。現在は、客室乗務員だった三番目の妻サラと共に暮らし、ヤイール、アヴナー[8] の2人の息子がいる。ヤイールは現在、軍務に就いている[9]。

 MITを優秀な成績で卒業後、1976年から1978年にかけてボストン・コンサルティング・グループで経営コンサルタントとして勤務し(当時の同僚に後のマサチューセッツ州知事となるミット・ロムニーがいた)、イスラエルに帰国。

政界入り

 政治の世界に身を投じたきっかけは、後に国防相、外相をつとめることになる政界の大御所・モーシェ・アレンスの勧めによるものである。1982年には、当時駐米大使をつとめていたアレンスの下で勤務。1984年から1988年までは、同国の国連大使を務める。同年にはリクードから総選挙に出馬し国会議員に初当選を果たす。イツハーク・シャミール政権下で外務次官をつとめ、1991年、サッダーム・フセイン体制下にあった当時のイラク軍のクウェート侵攻に端を発する湾岸戦争の際、外務次官という立場でありながら事実上のスポークスマンとして自国の大義を力説。それも、米国人と寸分違わぬ英語での話術は脚光を浴び、政界のホープとして嘱望され始める。

 転機となったのは、翌・1992年の総選挙である。カリスマ的な人気を誇ったイツハク・ラビン率いる労働党の前に、首相のシャミル率いるリクードは大敗して野党になった。シャミルは党首を辞任して政界を引退した。ネタニヤフは同年のリクード党首選に出馬、当選2回でありながら、ベニー・ベギンやダビッド・レビ、モシェ・カツァブを破り、リクードの党首になった。

首相職(1期目)

 ネタニヤフはパレスチナ過激派のイスラエルに対する自爆攻撃が多発した1996年7月の総選挙で勝利し、1992年にクセネト(国会)で成立していた首相公選制に基づいて行われた首相選挙で選出された。シモン・ペレスはパレスチナ過激派の自爆攻撃を鎮めることができず、公の信頼は急速に低下していた。1996年3月3日、4日のパレスチナによる二度の自爆攻撃では32人のイスラエル人が死亡した。この攻撃がきっかけとなり、ペレスはテロリズムに対する無策が批判され結局選挙で敗北することとなる。ペレスと異なり、ネタニヤフはヤーセル・アラファートを信頼せず、和平プロセスはパレスチナ自治政府の義務であるとし、自国に対するあらゆる攻撃に対抗する姿勢を示した。

 首相として彼はヤーセル・アラファートと交渉し、ワイ・リバー合意(英語版)を成立させた。しかし多数の者がネタニヤフはパレスチナ自治政府との合意を遅らせようとしていると非難した。ネタニヤフの和平交渉へのアプローチは強者としてのイスラエルをパレスチナ側に押しつけるものであった。

 "彼らが与えるならば - 彼らは得ることができる。彼らが与えない場合 - 彼らの得る物は無い。"
"???? - ?????. ?? ???? - ?? ?????"
このアプローチはうまくいくように思われた。前任者ペレスや後任者バラックと異なり、ネタニヤフの在任期間はパレスチナの自爆攻撃は少なく比較的平静であった。1996年にネタニヤフとエルサレム市長エフード・オルメルトは嘆きの壁のトンネルに出口を開くことを決定した。この決定はパレスチナ人による三日間の暴動の口火となり、百人以上のパレスチナ人がイスラエル側によって殺害された。

 対テロリズム政策の成功にもかかわらず、ネタニヤフは多くのエリートに嫌われ、メディアからは左翼と同一視された。一連のスキャンダル(彼の妻のゴシップを含む、97年には当時最側近だったツァヒ・ハネグビ法相に贈収賄疑惑が浮上するものの、最高検は嫌疑不十分で立件を断念している)と汚職に関する調査の後、ネタニヤフは大衆の支持を失った。

 1999年の総選挙でエフード・バラック率いる労働党に敗北した後、ネタニヤフは、一時的に政治から身を引いた。

2000年以降の政治活動

 汚職事件から身をかわすため、ネタニヤフは政治の世界から一時身を引き、議員の職も同時に辞していたが、2000年9月27日、イスラエル最高検が、ネタニヤフ夫妻の立件を証拠不十分で断念する。

 これを受けネタニヤフは、既に死に体となっていたバラック政権倒閣・復権に乗り出そうとするが、既にリクード党首の地位にあったアリエル・シャロンの方が役者が一枚上手で、翌日9月28日神殿の丘訪問でリクードの末端党員・右派陣営の心を完全に掌握してしまう。進退窮まったバラックは首相職を辞任・再選挙に打って出るが、議員の職にないネタニヤフは出馬を封じられ、選挙はシャロンの圧倒的勝利に終わる。 その後、首相の椅子をつかんだシャロンとネタニヤフの関係は抜き差しならない状態となり、2002年5月にネタニヤフの傘下にあるリクード・中央委員会がパレスチナ国家反対決議を行うと、両者の溝は決定的になる。

 2002年10月イスラエル労働党が政権を離脱、解散・総選挙の実施が決まり、リクード党首選が前倒しとなると、持論である「アラファト議長追放」「パレスチナ国家断固反対」を掲げ、シャロンと激突する。

2002年11月の党首選でシャロンがネタニヤフに圧勝した後、対立劇はいったん収束。2003年1月の総選挙でリクードが勝利すると、ネタニヤフは財務相に任命される。

 しかし2004年2月、シャロンがガザからの全面撤退を掲げた一方的ガザ地区撤退計画を発表すると、両者の対立が再燃する。シャロンは末端党員の支持を受けた上で計画の実現を画策するが、2004年5月に行われたリクードの党員投票では20ポイントもの差をつけられ撤退計画は拒否される。ネタニヤフは当然反対の意を示し、シャロンの腹心だったリモール・リブナット教育相もこれを境にシャロンから離反してしまう。撤退計画は、シャロンとネタニヤフの権力闘争という意味合いだけではなく、党内の強硬派と穏健派の対立、党是であった大イスラエル主義(「約束の地」の範囲を元々イスラエルのものと捉える思想)の是非といった、古い問題を顕在化させてしまったのである。党員投票で敗れたシャロンは、これを機にリクードへの不信感を募らせ、このことが翌年の集団離党・カディーマ結党へつながっていった。一方的ガザ地区撤退計画は党員投票では否決されたものの、2004年10月、労働党の支持を得て国会で何とか通過させる。その際もリクードの40人の議員の内17人が造反。党は完全に分裂状態となる。

 2005年8月7日、撤退計画の最終閣議決定の直前に、ネタニヤフは「ガザをテロリストの前線基地にする愚挙」として財務相を抗議の辞任、8月30日には本格的に倒閣運動に乗り出す。しかし、これも同年11月21日にシャロンらが集団離党する形で計画は頓挫する。ネタニヤフの決断が遅すぎたことと、シャロン以上に右寄りの政策(倒閣運動の翌日には、マアレ・アドゥミームを訪問し、ユダヤ人入植地の拡大を明言している)を打ち出さなければならなかったことも、彼には不利に働いた[10]。
 
財務相として、ネタニヤフはアル・アクサ・インティファーダの間にイスラエル経済回復のため大胆な計画経済を試みた。それは多数の論争の的となったが、計画はより多くの自由主義市場への動きを含んでいた。

その2

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